日本財団 図書館


 

東海サルベージヘの復帰はなかったように記憶している。

 

この海洋技術開発(株)の設立は1973(昭和48)年11月12日である。
白嶺丸進水直後の時点である。早速、土岐船長、吉開機関長、須藤無線同長らか続々と下船に赴かれ、建造の現場に住みつかれた。
この海洋技術開発(株)の社長は、最初の2代は、日本海事興業から市瀬猛男、佐野英三の両氏が兼任の形で見えたが、3代目以降は通産OBに変わり、加納寛治、山根侑、高索信幸と続いて現在は三品格正氏である。三品氏は金探理事からの異動である。
海洋技術開発所属の船員は、訓練の賜物というのか優秀で、過去23年間、人員、船体ともに無事故である。南氷洋をも含む遠洋にもしばしば長期航海で出掛けることが多い。また重作業も多い。にも拘らず無事故というのは、高く評価されてしかるべきであろう。
さて、船が出来るとなれば、専用岸壁が要る。この点についても「地質調査扮運航委員会」はお手伝いをした。
私は委員長の役を仰せつかっていたので、金探の地質調査船建造本部長である池田理事と忌憚なく意見を交換することができる立場にあった。
池田さん方はまず東京都と接触された。適当な候補地があった。話はずっと上がっていった。が、時の都知事・美濃部亮吉さんの所でストップがかかった。美濃部さんは次の趣旨で難色を示された由である。「白嶺丸が国の役に立つことは分かる。が、東京都民にとって直接的に役。立つとは思えない。都民に直接役立つ船に来て欲しい」、と。革新系であった美濃部さんは、通産省関係の船である、というところがお気に召さなかったのかも知れぬ。が、表向きの理由は上記の表現をとられた。
1969(昭和44)年、むしろ時の政府の意に逆らってまで、美濃部さんは、地方自治体の長としての立場で、老人医療費の大幅な軽減を断行された。その後、この輪は全国に拡がり遂に国の政策の一環として根付いた。私事に亘って恐縮であるが、当時、病気がちで年老いた両親を抱えていた一人息二子の私にとって、この措置による家計の負担の軽減は歴然たるものがあった。美濃都さんに足を向けて寝られぬ気がするほど感謝したものである。
話を元に戻すが、少なくとも美濃部さんは、都知事として、こうした岸壁事情にまで一々目を通しておられる

011-1.jpg

写真−1 竣工時の白嶺丸(金属鉱業事業団パンフレットより)

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION